2015年12月27日 18:28

​ 子どもを作文が苦手にするのは、よい作文について無知な大人のプレッシャー

 プロ野球の元監督の野村克也氏が、最近の週刊誌のインタビューにおいて監督と言葉について話しています。

 野村さんは、最近の若手監督は、「重みのある言葉」を持っていないと言っています。

 「重みある言葉」とは、「選手が聞いて感心し、納得するような言葉」と簡潔に言い換えています。要するに、人に感化を与え、より高みへ向かうように動かすことができる言葉ということですね。

 インタビューの中で、「巨人の原辰徳・前監督の話など、聞けば聞くほどイヤになった。良いことをいいたい、ウケを狙いたい……そう思って易しいことをわざと難しく表現して、自分を利口に見せようとしていた。自分が目立ちたいという野心が見え見えだ。だから余計薄っぺらく感じた」と、読売ジャイアンツの原辰徳氏の言葉を口を極めて非難しています。

 私としては、今の若手監督がどうであるかとか、原さんの言葉が薄っぺらいかどうかということについてよく知らないし、特に思うこともありません。しかし、「良いこと」を言いたがるためにかえって「薄っぺらく」言葉が感じられてしまうと野村さんが指摘していることについて、子どもと言葉の問題に通じるポイントがあるように思いました。

 真っ先に思い至ったのは、高校野球の選手宣誓の言葉ですね。

 だいたい毎回どれも同じようなもので、「これまで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れずに」、「感動を与えたい」とかなんとか、紋切り型のキレイごとが並びます。

 まあ、こういうのが好きだとか、「いいじゃないか」などと思う人も、結構多いのかなと思います。でも、あえて言っておきますと、そう感じちゃう人は、自分の感覚を自分の言葉で言い表す努力をする経験が乏しい人です。

 以前、少年野球をやっている子どもたちが書いた作文や色紙を見る機会があって読んだことがありました。

 最初の作品に、「これまで自分を支えてきてくれた人たちへの感謝云々」ということが書かれていて、いやいや小学生くらいからこんなことが書けるとは、感心感心なんて思ったのですが、次のものにもまた別の子供のものにも同じようなことが書いてあって、驚いたことがあります。どの子もどの子も「感謝」「感謝」なんです。

 人のお子さんの悪口をいうつもりは毛頭ないんですが、でもやはりこれはこの子たち自身の言葉ではないですよね。周りの大人が喜ぶようなことを察して書いているんですよ。

 よい作文とは何か。それは、テーマに対して自分の経験を具体的に盛り込めている文章だと言いきってよろしい。ですから、作文などというものはもともとそれほど困難な課題ではないのです。

 しかし、作文がなかなか書けないという子どもは多いですね。そういう子どもたちは、往往にして真面目な子どもが多いと思います。

 真面目な子どもが作文を書けなくなる。それはなぜか。

 真面目な子どもは、基本的にちゃんとしたいと思っています。「ちゃんとする」ということは、親や教師などの大人が認めるようなものでありたいということです。

 では、大人(ここではあまり見識のない人のことです)が認めるような作文とはどういうものでしょうか。それは、大人の目線から見て「良いこと」が書かれているものです。そういうわけで、真面目な子どもは作文というと大人の喜ぶ「良いこと」を書かなければいけないものだと思い込むことになります。

 その結果どのようなことが起こるでしょうか。子どもたちは、自分が聞いたり読んだりしたことがある言葉の中で、大人が喜びそうなものを探し、それをまねて書くようになります。かくして、子どもの作品は「感謝」「感謝」ばかりになるわけです。

 これは、ジャイアンツの選手時代の広岡達朗氏が、川上哲治監督のミーティングに参加し、その言葉に感激して自分の手帳の表紙に「大感謝」と書いたのとは、全く意味合いが違うでしょう。心から出てきた言葉と、受けが良さそうだという理由でまねしただけの言葉との違いがあります。

 さて、では子どもがどれも似たような「良いこと」を書こうとすることの何がいけないのかと思う人もいるかもしれません。実際、お約束の決まり文句をスラスラと言えることも時には必要でしょう。

 しかし、よく考えてほしいことがあります。子どもたちが、大人受けがいいだけで手垢にまみれた言葉をなんの考えもなく真似して使い、さも「良いこと」を言ったなどと思うようになることがどういうことか。それは、彼らが真に人の心を動かすような力のある言葉を編み出す経験をする機会が失われるということなのです。

 「言葉を編み出す経験」とは、事実や自分の気持ちをより正確に伝えるために自分なりに言葉を選ぶ試みをすることです。そういう経験を積み重ねることで、借り物ではない、自分でも納得ができ、人が聞いて感心するような言語表現ができるようになるのです。

 野村さんが言うように、現代のプロ野球界に、「選手が聞いて感心し、納得するような言葉」を持った監督がいないと言うのがその通りであるとすると、自分の頭で考えて言葉を編み出す努力をしてきた人がいないということです。

 そして、その背景として、子どもたちを取り巻く環境が、自分の頭で考えて言葉を編み出す経験をさせるよりも、大人が喜ぶような紋切型を安易に選ばせるようなものになっているということがあるのではないでしょうか。

 まあ、まだ野球がとても上手であれば、プロ野球選手として、大した言葉を持っていなくても活躍することはできるでしょう。そう考えてみると、実はプロ野球界の人々よりも、そうではない多くの人々のほうこそ、言葉を持っていないということは深刻な問題であることが分かります。プロスポーツ選手にならずに、学生になりビジネスマンになるほとんどの人にとって、成功するためには何より言葉が重要だからです。

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