「分からない」ことの大切さ
今から10年以上前にテレビドラマにもなった人気漫画「ドラゴン桜」の続編である「ドラゴン桜2」の連載が、今年始まった。私は、漫画雑誌は個人的にほとんど買わないので、単行本で読んでいる。
アマゾンのレビューを見た感じ、評判は今一つ芳しくないらしい。確かに、旧作に比べると格段に面白くない。
旧作は、倒産寸前の偏差値30台の底辺高校が舞台で、登場人物の子どもたちも複雑な家庭環境に育ち、学力のみならず自己肯定感も極めて低く、性格的にも屈折した者たちだったが、そうした子どもたちを成長させるストーリーだけでも十分に面白かった。
第2作は、東大合格者もぽつぽつ出るようになり、そこそこのレベルの高校になった龍山高校が舞台で、したがって生徒たちもそこそこ学力がある普通に良い子だ。ちゃんとした家庭で愛されて育った普通の良い子を成長させる。第2作が旧作に比べていまひとつ面白くない原因は、まさにここにあるのだろう。
しかし、現実の世の中にはこうした普通の良い子が多いので、設定としては第2作のほうがリアリティは高い。実際、昔は結構荒れていると言われていたような高校でも、今の生徒たちはおとなしい。
表面的なストーリーの盛り上がりを捨てても、今の現実のおとなしい良い子の高校生たちを描こうとしているのであれば、それは大変なチャレンジだし、私としては応援したい気持ちだ。
この辺の描写は、塾人としては結構グッとくるものがあった。こういう、「わかった気になっちゃう」子を伸ばすのは、実に難しい。
本人はいたって真面目な良い子で、やれと言われたことをちゃんとやるだけではなく、それ以上に頑張りもする。しかし、自分が本当の意味で理解できていないことを自覚できないから、例えばテストなんかで、同じことでもちょっと違った角度から問われると、それが自分の「知っている」ことであることに気づけず、正解を出すことができないのだ。
こういうタイプの子どもには、自分が本当の意味で理解できていないことを自覚できるようにしてあげなければいけない。授業で教わったことをそのまま言えるとしても、それで良しとしてはいけない。それは別の視点で見るとどういうことか質問するなどして、自分の言葉で説明できるまで頭を使わせるようなことをしなければいけないのだ。
実はこれも、教育の現場では少々難しいことだったりする。なにぶん本人は「自分はちゃんとやっているのに、なんでこんな意地悪なことを突っ込まれなければいけないのか」などと思うこともある。自分が分かったつもりでいたことの無知を暴かれるので、「この先生の話は私を混乱させる」とか、「この先生の話はよく分からない」などと、指導者について思い込んでしまうこともある。
親御さんの性根が据わっていないと、こんな時、子どもと一緒に不安に陥ってしまったりする。「子どもが分からないと言っているので、分かるように教えてください」などと「クレーム」をつけるような方もたまにいる。大人たるもの、「分からない」、「できない」と子どもが言っているとき(すなわち自分の頭で考え、成長しているときなのだが)を大切にしてほしいと心から思う。
教育について見識の浅い人は、「分かりやすく教える」ことができるのがよい教育だと思っている。考えの浅いこのような人は、その実、分かったような気にさせるだけの話を聞いて、まんまと分かった気になっているにすぎないことが多いものだ。本当に子どもの学力を伸ばすことができる教育とは、自分が分かっていないことを自覚させるものなのだ。
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