2020年01月29日 23:12

「分からない」のは人のせいではなくて自分の頭が悪いからだということを認めるところがスタート地点

 塾長の私は、大学では哲学科というところに所属していました。哲学科とは何をするところか。その「アクティビティ」の99.9%は本を読むことです。

 こういうとちょっと極端に変な所と思われるかもしれませんが、では、ほかの学科は何をするところかというと、それもつまるところ本を読むところです。実験やらフィールドワークやらの有無で、読書が占める割合の高い低いはあるかもしれませんが、学問とは多かれ少なかれ、本を読むことです。

 以前、「私に読書の何が楽しいか教えてほしいわ」なんてうそぶいている人を見たことがありまして、見ているこっちが恥ずかしくなったことがありました。上の通り学ぶとはほぼ読書でありまして、「読書が嫌い」とか「読書はしません」なんて言うことは、「私はアホです」と言っているに等しい、本来非常に恥ずかしいことですので、あまり人前で言うのはやめたほうがいいと御忠告申し上げたいですね。

 さて、哲学科ではどのような本を読むのかというと、例えばこんなものです。

人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関係するところの関係である。

~キェルケゴール『死に至る病』

 もうね、いきなり一歩も進めなくなりますよね。これはこの『死に至る病』という有名な本の冒頭なんですが、ここで何度挫折したことか・・・

 どうしたらここに書かれていることが分かるようになるか。それは、今よりもいろいろなことを学んだり、見聞きしたり、恋愛をしたり、議論をしたりして、自分のアタマをよくするしかないんでよね。歴史を知り、古典から現代の文芸を知り、人の苦悩を知り、想像力を鍛え・・・などしていって、総合的に自分の理解力が高まっていったところで、ようやく難解とされる文章で哲学者が何を言わんとしているかがなんとなくわかってきます。

 実は上の『死に至る病』は、哲学の本の中では実は比較的易しいほうだったりするのですが、様々な本に挑戦しては挫折し、自らのアタマの悪さを思い知らされたものです。でも、そのおかげで、ものを学ぶ上で大切な姿勢が自分には身についたと思っています。

 このことを通して何を申したいかと言いますと、基本的に物事が「分からない」とき、その責任は本来自分自身にあると思うべきだということです。それを、最近は、理解できないのはそれを作った者の責任だとか、教える者のほうの責任だなどと考えたり平気でそのようなことを公言したりする人間がとても多くなっているように思います。

 多分、このような風潮を助長しているのに、塾業界は一枚も二枚もかんでいるのでしょう。「分かりやすく」教えるのはこの業界のウリでもあります。しかし、実のところ子どもの脳に負荷をかけないように、もっともらしく面白おかしく語っているだけであることも少なくありません。また、私に言わせれば、子どもの「分かった」の7~8割は「分かったつもり」ですね。その「分かった」ことを自分の言葉で説明できるレベルで理解している人は、滅多にいないからです。

 私が代ゼミ津田沼校で教わっていた英語教師に鬼塚幹彦先生という方がいて、その方の講義がYouTubeにアップされています。その冒頭部分でいきなりぶちかましていますね。

(講義映像を聞く前に)自分でまず(課題英文を)読んでから聞いてもらいたい。読んでいない人は映像を止めて、一度読んでから聞くようにしてください。・・・英語の授業というのはただ聞いているだけでは害になる可能性もあります。なぜかというと、話を聞いてなんとなく「分かった」という気になってしまう・・・。

 分かった気になってしまうことの害悪は、本人は勉強をやっているつもりになってしまうことと、分かったつもりでも頭は少しもよくなっていませんからテストなどでは一向にできるようにならないというところでしょうか。こういう大切なことをちゃんと伝えられる雰囲気が昭和時代や平成初期にはまだありました。

 「うちの子が◯◯のところが分からないと言っています」なんてお尋ねに対して、私も正直なもんだから、「現状の理解力だとそりゃそうだと思いますよ」なんて言ってしまって、お叱りをいただくことがあります。まあ、ご理解いただきたいのは、お子さんの頭脳が鍛えられて理解力が向上すれば、おのずと今わからないところも分かって出来るようになるものだということです。残念なのはこういう子どもの成長の道理を知らない親御さんが多いことと、親がそんな感じだと、子どもも今すぐ自分が理解できないのは、教え方が悪いせいだなんて思ってしまうことですね。

 教師が、自分の教えることを熟知して、その解説が明快であることは当然必要です。しかし、それと同時に、教育者としては、子どもに自分が分かっていないことを自覚させることは本当はもっと必要です。国語道場の生徒たちはよく知っていると思いますが、私が、生徒たちに教えると同時に、しょっちゅう生徒たち自身に説明させることをやっているのは、そのようなわけです。

 自分が理解することができないことの責任を外部化するような人に成長はありません。まずそれをしっかりと自分自身で受け止めて、なんとしても自分のアタマで理解してできるようにするんだという意識を子どもたちに持たせること、これが本来の教育のあるべき姿だろうと思っています。

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