カリスマ指導者の教え方はここが違う
再三アッピールして恐縮なんですが、私の母校の吹奏楽部は昨年の東日本学校吹奏楽大会で金賞を受賞しました。しつこいですね^^;
現実問題、このレヴェルまで子どもたちを学校の教諭だけで鍛えあげることはなかなか困難のようで、私の母校でも外部指導者が関わってくれていました。
その吹奏楽部の定期演奏会が今月末に行われます。以前の記事にも書いたように、毎年卒業生のためのコーナーがあって、今年も私はでしゃばってまいります。
先日の合同練習で、その外部指導者の方が来てくれたのですが、その指導が大変素晴らしく、私達の学習指導や子育てにも役立つところがあるなあと感じたので、まとめておきたいと思います。
その外部指導者の方ですが、なんと千葉市立幸町第三小学校と大変ゆかりのある方だそうです。そう言うとご存じの方はすぐに、「ああ、あの方か」とお気づきになるかもしれません。
カリスマ的指導者、ですね。私達のために1時間弱ほど練習を見、アドヴァイスをくれたのですが、実際に我々の意識が変わる、サウンドが変わる、ということが起こります。
私、レッスンのあまりの素晴らしさに感激し、どうしてこんなにすごいんだろうかと週末ずっと考えておりました。それで、私なりに次のようなところにポイントがあるのではないかという結論に達しました。
①カリスマ指導者は、結果論ではなくコツを伝える
②「コツを伝える」とは、正しい意識を持たせることであり、それは体や神経の働かせ方を体感させることである
どういうことか。
私達の演目の1つに、吹奏楽でよく演奏されるポップ曲があるのですが、どうもその「ノリが良くない」ということが問題になっていました。
ここで、平凡な指導者であれば、「ノリが悪いので、もっとノッて演奏してください」なんてことを言ってしまうことがあります。
私の母校の吹奏楽部員はいい子ばっかりですから、「はい」なんて素直にお返事して、練習を続けるわけですが、これが結構危ない。
「ノリが悪いのでノッてください」なんて、ほとんど何も意味のあることを言っていないに等しいですね。
しかも「ノル」ってなんだよと。こんな抽象的な言い方では、人それぞれに受け取り方が違ってしまいます。吹奏楽は、全体で1つの音楽を作っていくものですから、それぞれの考えがバラバラであるというのは、大変良くありません。
このように平凡な指導者は結果論でものを判断し、結果だけを変えようとしてしまう(あるいは結果だけを変えられると思ってしまう)ところがあります。
私達の場合はどうだったか。「ノレばいいんでしょ」ということで、1つ1つの音を強く吹くようになり、全体としてきつい演奏になってしまっていました。
私達の演奏を聞いた、かのカリスマ先生はどうしたか。
いったんメロディーを担当するパートやパーカッションを外して、低音域や中音域の伴奏パートだけ吹くように指示しました。そして次に、その伴奏にクレッシェンドやデクレッシェンドなどの表情をつけていきます。
その間、メロディーパートやパーカッションのメンバーは、その様子を聴いています。伴奏が何をやっているか、それまでほとんど意識できていませんでしたが、それがとても豊かな響きであることに気付かされます。
さて、それから全員で演奏してみるとどうなるか。こうなると、メロディー担当もパーカッションも、意識がそれまで楽譜にばかり向かっていたものが、自然と周囲の音に行くようになるんですね。
結果、演奏はどんなふうに変わったか。
それまで、「ノリを良くして」と言われ、めいめい自分の楽譜ばっかりに集中して、リズムをはっきり演奏していたため、とてもきつい演奏になっていました。しかし、自分が出す音以外にも同時にいろいろな音に神経が向かうようになると、全体として音色がとても柔らかくなりました。そして、その柔らかい演奏こそ、我々が当初求めていた「ノリの良い」演奏に他ならなかったのです。
まとめておきましょう。
「ノリの良い演奏」をしたいという結果を求めるときに、「ノリを良くしなさい」と言う、つまり結果論で判断して、その結果を出せという指示を出した。すると、受け手側ではそれを勝手に解釈してしまって、結果的に求めているものは得られませんでした。
カリスマは、「ノリの良い演奏」ができていないのは、自分たちがやっている曲がどういうものであるかを、プレーヤーが自覚できていないことにあることを見抜きました。そして、伴奏部分だけをみんなに聞かせ、そこに意識をもっていかせるように工夫しました。プレーヤーの意識が変わると、演奏がころりと変わりました。
いやはや、これぞカリスマの指導法かといたく感銘を受けました。
このようなカリスマ指導者が行うポイント、つまり、①結果論で判断せず、コツを伝える、②「コツを伝える」とは、正しい意識をもたせることであるということですが、それは学習の指導においても重要ですね。
例えば、中学の数学に証明という単元があります。中学数学では、まず三角形の合同を利用した証明を教わります。
しかし、証明が苦手な生徒は、そもそも何をどう書いていいか全くわからない、といいます。
凡庸な指導者だと、教科書や問題集の例にあるのをマネして書けばいいとか、そんなことを言ってしまうんじゃないでしょうか。
これなんかは、まさに「ノリが悪いのでノッてください」並に意味のない「指導」ですよね。「証明が書けていないので書いてください」なんて、生徒からすると、いきなりあんな長い(ように見える)ものを書けと言われても、とっかかりようもないことでしょう。
証明が書けないという生徒のほとんどは、証明を書くためには、あの文章に書かれている順番に考えなければいけないと誤解しています。まずその誤解を解いてあげることが肝心です。
私は、まず最初に合同条件を言わせます。そう。証明の文書全体から言うと、最後の方に書くことですね。
証明が書けるようになった人は自然とそうしていると思いますが、証明の文章ではあとの方に出てくる合同条件は、考える流れの中では実際最初の段階で考えているはずです。
この考える順番というコツがつかめれば、中学数学の証明なんて誰でも書けるようになります。なぜかというと、ポイントが絞れるようになり、何を説明すれば十分か分かるようになり、そして証明の文章の構造が理解できるようになるからです。
三角形の合同を利用した証明問題であれば、ポイントは3つしかありません。辺の長さまたは角の大きさが同じ所を3つ見つければよろしい。
それが分かると、ああなんだ、このポイント3つを書けば十分なのかということが分かります。
そうなると、
「ああ、証明の文章って何をどこまで書けばいいのかわからなかったけど、最初に証明する三角形を挙げて、どことどこの辺と角が等しいかを書いて、その後に合同条件、そして最後に聞かれていることが証明されたことを書けばいいってことなのね」
と言った感じで文章の構造が理解できるようになります。
学習指導においても、結果論で判断しない、コツを伝えることが大切だということは、全く同じだなあと、吹奏楽のカリスマのレッスンを受けて思いましたね。
さて、翻って、子どものしつけ。
「早くできない」から「早くしなさい」、「勉強しない」から「勉強しなさい」という結果論だけで判断しているトートロジー的な物言いに全く効果がないのも、大いにうなづけましょう。
「早くできない」、「勉強しない」ならどうしてそうなっているのかをまず分析すること。どういうところに意識をもっていかせたらいいのか考え、そのためにはどういう工夫が必要なのかを考えることこそが大切だということでしょう。
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