ファンタジーの世界は死んだ。自分の生き方は自分で決めてこの世界を変えろと『天気の子』が言っている
今日は、あきこさんと小6の娘とイオンモール幕張新都心に、話題の映画『天気の子』を見に行きました。
イオンモールの映画館はいいですよね。駐車場はなんかいつもタダだし、座席もゆったりしています。映画館の向かいにゲーセンがあって、そこに80年代ゲームのできる筐体が1つ置いてあるんですよ。私はいつもそこでゼビウスを1ゲームキメて、映画を見ます。今日は絶不調で、最初のアンドアジェネシスも越えられませんでした。情けない。
さて、映画についてですが、この先本作の核心部分についてのネタバレがありますので、これからご覧になる方はお読みにならないか、その上お含みおきの上ご覧いただければと思います。
まず、あきこさんが指摘していたのですが、この映画、『天空の城ラピュタ』を強く想起させますね。『ラピュタ』のパズーとシータに対応するように、『天気の子』では帆高と陽菜という2人の10代半ばの男女が主人公になっています。シータがラピュタ王家の末裔であるように、陽菜は天に通じる力を持つ「晴れ女」という設定になっています。そして帆高は、パズーのように、自分の人生をなげうって陽菜を守ろうと格闘します。
そのほかにも、水没する東京のシーンは『崖の上のポニョ』を連想させます。『天気の子』では、現実世界とファンタジーの世界との境界は代々木の廃ビルの屋上にある祠の鳥居になっていますが、それも『ポニョ』や『千と千尋の神隠し』におけるトンネルを思い出させます。人物や物の設定に、宮崎駿監督の映画からの影響というか、それへのオマージュというか、はたまたそこから離れていこうとする意図を感じました。
宮崎作品と決定的に異なるのは、ファンタジーの世界の「貧困」です。宮崎作品では、ファンタジーの世界は現実の世界にも劣らぬ繁栄を見せています。魑魅魍魎が生き生きと活動し、時に魅力的なキャラクターも現れます。しかし、『天気の子』では、ファンタジー世界の中心である積乱雲のてっぺんには、小さな草原があるだけです。
これは意図的なものなのか、それとも新海誠監督にはファンタジー世界のアイディアがなかっただけなのか、映画を見終わった後もしばらくわかりませんでした。しかし、劇中、異常気象で空から魚のようなものが降ってくるという描写があったり、雲の上には地上の者には知れない世界があるのではないかなどと話す人物がいたりするのですが、この伏線が明確に回収されていないことを、帰宅して風呂に入っているときに思い出しました。「晴れ女」の陽菜が雲上のファンタジー界に召されて、その貧弱な草原の上で横たわっている場面があるのですが、そこにいるのは彼女の周りに群れる小魚のようなものだけです。ここから、新海氏は意図的にファンタジーの世界を貧困なものに描いているのだろうと確信しました。
もはや、アニメ作品の中でしばしば豊かに描かれてきたファンタジーの世界は、現在の人々にとってはもはやリアルなものたりえない。従来のような現実世界に対峙しうるようなファンタジー世界の表現は、今や意味がないと考えているのではないでしょうか。
かくして、『ラピュタ』においてパズーたちが戦ったのはファンタジーの世界でしたが、帆高が戦いを挑んだのは現実の世界でした。人々が互いの事情を何も理解できていない世界。多くの人々が深く考えることもなく当たり前のものとして受け入れている日常の世界です。
例を挙げるなら、多くの人は、子どもは毎日学校へ行くのが当たり前だと思っています。しかし、報道によれば、不登校状態の子どもは全国に40万人以上いるそうです。小中学生全体の8人に1人という割合です。これほど多くの子どもたちが、「当たり前」の日常に息苦しさ、耐えがたさを感じて生きています。このような例が現実世界にはほかにもいろいろとあることを考えると、実はこうした日常のほうがファンタジーの世界よりも奇異な世界なのではないか。『天気の子』の制作者は、そのようなことを伝えているように思えます。
天に通じる力を持つという「晴れ女」の陽菜がこの世界にいることは、「異常気象」という災いをもたらすことになります。これが従来的な価値観の映画作品であれば、そのような登場人物はターミネーターのように溶鉱炉の中にでも入って消えてもらわなければなりません。しかし、この映画ではそうはならない。帆高は全力で陽菜を天界から連れ戻します。その結果、東京都東部の、現在の都心部の大半が水没してしまいます。
しかし、それが必ずしも「異常」ということではないのではないかと、ひとりの老婆が語ります。確かに、歴史的には現在の東京東部は、徳川の江戸入府以前は海の底でした。その意味では、東京が本来の姿に戻ったともいえるのではないか。現在の都心部が水没してのちも、人々は西部の市域に移り住んで、何事もないかのように生活しているさまが描かれます。
主要な登場人物の一人が、映画の最後のほうでこのように帆高に語ります。
世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから。
本作を通して製作者は、今の中高生くらいの若者たちに向けて、今あるこの世の中のものを無批判に当たり前なものだと思うな。自分で感じて自分のアタマで考えて、自分の生き方は自分で決めろ、そして世界を変えろと、訴えているように思いました。
一点だけ、女性の登場人物に人間味がないことが残念でした。これはこの作品に限らず、日本のアニメ作品全般に言えることかもしれません。男が、自分の目的達成のために格闘する中で、女はそこに都合よくかかわるという役回りをするだけで、その思想や心の葛藤などが十分に描かれていない作品が多いように思われます。
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