分かりやすきゃいいってもんじゃない
私の母校、千葉県立鎌ケ谷高校吹奏楽部は、東日本吹奏楽大会において3年連続金賞受賞の快挙を達成しました。
いわゆる「吹奏楽コンクール」にはA・B・C3部門あって、東日本吹奏楽大会は、小規模編成のためのB部門の最上位の大会です。
私が現役のころは県大会出場で号泣レベルだったので、東日本大会どころか東関東大会出場でも十分すごいことに思われちゃうわけですが、東日本大会に出場、しかもそこで金賞受賞、それも3年連続なんて、ちょっと想像できない次元に入り込んでいますね。部活推薦も何もない普通の県立高校なんですが、どうしちゃったんでしょうか(^^)
実はここ3週間、週末は娘と一緒に週末は縄文土器を作っています。
加曽利貝塚博物館のイベントに参加しているのです。皆様ご存じの通り、加曽利貝塚は、今年、国から「遺跡の国宝」と言うべき特別史跡に指定されることになっています。それを記念して、様々なイベントや勉強会が活発に行われています。
私が参加している縄文土器を作るイベントは、全4回、約1か月半にわたり、本物の縄文土器のレプリカを、実際の縄文土器の作り方にのっとって作るというものです。創作は一切ダメ、自分の選んだ本物の土器と同じ形状、同じ大きさのものを再現するという非常にストイックなものです。
このイベントに参加して初めて知ったんですが、縄文土器の作り方は、新井司郎氏という奇人と加曽利貝塚博物館との働きによって知られるようになったことが多いんですね。
新井氏とは、上州桐生の人で、かの地で個人的に縄文土器を製作し続けていた人だそうです。今から50年近く前、加曽利貝塚博物館が氏を招き、共同で縄文土器の制作方法を研究していきました。その中から、縄文土器の材料や焼成温度、用途など様々なことが明らかになっていったのだそうです。新井氏は、加曽利に来てから2年ほどで急死してしまったということですが、縄文土器研究を進展させるために神が彼を地上に遣わしたのかもしれません。
地域の行事で、一般的な焼き物作りの体験はしたことのある私の娘ですが、ろくろも使わず、そのために結構複雑な工程の多い縄文土器づくりに、「難しい」とか「めんどう」とかブーブー言っておりますが、それもまたよし。焼き上げは来月の下旬。完成が楽しみです。
昨日の午後は、千葉県文化会館に移動して、千葉交響楽団の定期演奏会を聞きに行きました。高専の寮から息子もやってきて、久しぶりに家族4人がそろいました。
演目は、ブラームス作曲のピアノ協奏曲第2番と同じくブラームスの交響曲第2番。2曲とも私の愛する曲。
千葉交響楽団は、昨年までニューフィルハーモニー千葉という名称のオーケストラでした。ああ、それなら学校の芸術鑑賞会に来てくれたところだと思い当たる方も多いのではないでしょうか。千葉県民にとってはなじみのある楽団ですね。ファゴットの柿沼麻美さんは、昨年の日本管打楽器コンクールで1位に輝いたということですが、他のメンバーも名手ぞろいで、こんな素晴らしい楽団が学校などに来てくれるとは、千葉の子どもたちは幸せだなあと思います。
今回のピアノ協奏曲のソリストは河村尚子さん。何年か前の千葉県少年少女オーケストラの定期演奏会で、この時はブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いていたんですが、それがとても印象的だったので、今回また千葉で、今度はブラームスの第2ということで、大いに楽しみにしていたのでした。
いや、すばらしかったですよ。これほど充実した演奏というのはそうそう聞けるもんじゃないという出来だったと思います。第3楽章で、ピアノが愛惜の念を湛えながら静かに上昇していくところや、チェロの切々たるメロディーに感涙、フィナーレの輝かしいエネルギーのほとばしりにブラヴォーを不可避でした。
一方で息子はと言うと、「ブラームスはよく分からない」などと言っておりました。しかし、それもまたよし。
私が意識的にブラームスの曲を聞いたのは、ちょうど私が今の息子と同じくらいの歳のことでした。当時は正月に、その前年に来日したオーケストラのライブを放送するという番組があって、そこでホルスト・シュタイン指揮のバンベルク交響楽団のライブで、ちょうど今日の演目と同じブラームスの交響曲第2番の演奏を聞きました。
正直、当時の私も「ブラームスはよく分からない」と思いました。なんだか、全曲の最後の大盛り上がりの所で、トランペットがパカパカパカパカやるところがちょっと頭に残った程度で、それ以外のところはほとんど何も思い出せないような状態でした。
今ではブラームスは一番好きな作曲家の一人ですが、本当に素晴らしいものが「分かる」と思えるくらいに入ってくるようになるには、成長が必要なのだということを、こんなことからも思います。子どものころに嫌いだった野菜の味が、大人になってから分かるようになるのに似ています。とにかく、「分かる」ようになるのに成長が必要なんです。
学生時代参加していたゼミの教官で、比較文学の泰斗の川端香男里先生がこんなことを言っていたのが今でも印象に残っています。「詩人もね、一回読んだくらいで分かってもらっちゃ困ると思って書いてますから」と。
「分かる」ということに関しては、塾でもお笑いでも、本でも何でも、人を甘やかす方向に行っている感じがします。ちょっと読んでわからなかったらそんな本は読まなくていいとか、ちょっと見てつまらなかったらそんな舞台は見なくていいとかいった言説を最近よく見かけます。
もちろん、受け手側の成長度合いに応じてすんなりと理解できるように書くとか、説明するとかいうことは必要なことです。けれども、本当に大切なことは、それを理解しようという心のある人、それだけ成長した者にだけに理解されるようにできているのだということは、頭の片隅にでも入れておいたほしいものです。
だから、子どもたちには、今すぐにその良さは分からないかもしれないというものに、折を見てそれとなく触れさせることは必要なことなのです。どうせ分からないだろうと遠ざけてはいけません。子どもが好んで食べたがらない食材も少しずつ食べさせてその味にならしていくのに似ています。
心の成長がある程度の所に達すると、その時突然ピーマンもブラームスの音楽も、自分にとって興味深くて大切なものとして感得されるようになるのです。
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