2019年08月18日 22:49

大人の目を気にしている作文が一番ダメ

 千葉県公立高校入試には「特色化選抜」というものが一昔前にありまして、各高校で独自の課題が出されていたことがありました。独自に入試問題を作って課す高校もあれば、作文をやらせるところ、自己PRをさせるところ等々、いろいろな選抜方法があったものです。一部、現在の前期選抜の2日目の課題に引き継がれています。

 その時の課題の一つとして、小論文がはやった時期がありました。いつの間にかあんまり聞かなくなりましたね、小論文。そのころは、「作文と小論文は何が違うんですか」という質問をいただくこともよくありました。

 一つの側面として、作文と小論文とでは、個別性と普遍性の度合いが違うということが言えると思います。

 作文は、個別性が高い方がよいと言えると思います。課題に合っていれば、まるっきり個人的な体験に個人的な考えであっても、筋が通っていればOKというところがあります。したがって、個人の体験が具体的に書かれているものの評価が高いことになります。

 一方で小論文は、広く一般に通用するような文明的な観点で書かれている必要性が高いと言えます。個別具体的なところにとどまらずに、様々な人々に当てはまるような一般的な考え方が述べられる必要があります。したがって、抽象的に議論を進められることが、作文課題よりも求められると言えるでしょう。

 最近では高校入試で小論文が課されることがあまりなくなってきましたので、子どもたちにとっては高校受験の段階までは作文の力をつけることが大事だということになります。上述のとおり、作文において重要なのは、個別的で具体的に文章が書けることです。国語道場では、当然そのような文章が書けるように指導するわけですが、柔軟に文章が書けるように、書く内容のタブーをなくすことに努めています。笑ってしまうようなことや少々お下品な話を書くことも奨励しています。何を書いてもいいんだということを子どもたちに分かってもらうことが、具体的で面白い文書を書く上で有効だからです。

 よくない作文というのは、「ちゃんとしたこと」を書かないといけないという思い込みの強い子どもの書く作文です。例えば「美しい言葉について作文を書け」というお題に対して、「これからは僕も美しい言葉を大切にしていきたいと思います」などと書いちゃうような作文ですね。自分の体験も振り返られておらず、具体性がなく、だれでもかけるようなマジメくさった文章です。

 まあ、本人は一生懸命書いてくれているのであんまりこき下ろすわけにもいかないので、優しくリードしながらより良い作文に導いていくわけですけれども、どうしてこんな文章を子どもは書こうとしてしまうのでしょうか?それは、つまるところ大人の目を気にしているからだと言えます。彼にとって良い作文とは、大人が評価してくれる作文なのでしょう。そうすると、いかにもつまらない大人がまじめくさって言いそうなことを書いたらいいのかな、という発想になり、このような文章を書くことにつながるのだと思います。

 終戦の日の「朝日新聞」の天声人語に、日中戦争時の子どもの作文が紹介されていました。

ぼくは、わるいしなのくににうまれないでよかったと思いました。ぼくはしなのしょうかいせきや、そうびれいがにくらしくてたまりません

 勧善懲悪的なストーリーを作り上げて戦争をあおる当時の報道に流されているのか、教師や周りの大人にほめてもらえるようなことを、意識的にせよ無意識的にせよ書こうとしたのかどうかはわかりません。いずれにしてもなんとも残念な文章としか言いようがありません。

 しかし、振り返って、現代のわれわれは、こんな作文指導から進歩していると言えるのか、考えなければいけません。子どもたちに、「私もこれからは自然を大切にしたいと思います」みたいなつまらない、まじめぶった作文を書かせているだけだとしたら、社会の価値観が変わっただけで、子どもにやらせていることは何も変わっていないぞということになるのではないでしょうか。

 そんなわけで、国語道場では面白い作文を最も評価しています。日常の中で見つけた、自分が面白いと思ったことを書けという指導です。このような作文指導をこれからも続けていきたいと思っています。

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