2016年09月30日 23:25

大人も学ぶこと、感じること

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて ~ 茨木のり子

 News Weekの記事に、こんなものがあった。

 OECDが実施する「国際成人力調査」(PIAAC)という大人の学力の国際的な調査。日本人の大人は、学力が高いわりに新しいことを学ぶことが好きだという人の割合が低いらしい。確かに、勉強は子どもがするもので、学校を卒業したら勉強もおしまいという強い思い込みはあるかもしれない。

 しかし、勉強しない大人が、子どもに勉強しろと叫んでいる社会は、滑稽でさえある。勉強するといっても、何でも肩ひじ張ったそればかりを考えることはない――肩ひじ張った勉強をしてももちろん良いわけだが。自分の感覚を研ぎ澄ませるくらいのことでも、学べることは大いにある。

 「嫌いだ」とか、「全然面白くない」とか、強烈に感じたことのあるものには、実は脈がある。若いころ読んで、「全く意味不明」などと思って放り出した本だとか、ただの落書きだなどと感じた絵画だとかをもう一度手に取ったり眺めたりすると、改めてその面白さが分かるということがある。

 最近こんなことがあった。

 NHKで、「夏目漱石の妻」というドラマをやっている。その一場面で、あるピアノ曲が印象的に流れてきた。

 実に心にしみるような響き。いや、自分はこの曲を知っている。ベートーヴェンでもない、ブラームスでもない。誰のなんという曲だったっけ。

 番組の終わりに、その曲名が、キャストやスタッフの名前とともにテロップで流れた。シューベルトのピアノ・ソナタ第21番…。

 「シューベルトか」と思わず声を上げてしまった。

 シューベルト。未完成交響曲と、楽興の時などの数曲のピアノ小品を除いて、退屈で退屈でしょうがない、何が面白いのかさっぱりわからないといった感想しか持ったことがなかった。

 それが、たまたま見たドラマの、まさにこういう雰囲気しかないといった場面で挿入曲として使われているのを聞いただけで、これほど印象が変わるものなのかと正直驚いた。

 翌日、自宅にあった内田光子のCDをさっそくiPodにコピーして、道場からの帰宅の道、夜の闇の中聞きながら帰った。

 ことさらに人々に聞かせてやろうなどという音楽ではない。ただただ、自分の作りたい音世界を丁寧に作りこんでいったといった感じだ。どんなに耳元で流されても、聞こえない人には聞こえない音楽。

 響きも、曲の構造も、以前のような無関心に飲まれて聞こえなくなることもなく、すんなりと頭に入ってくる。何よりも曲の感情の流れに、私自身の心が溶け込んでいくようだ。

 何かが「分かった」とかいう感覚は、教科の勉強のようなものに限ったものではない。すぐに分かるようなものもあれば、私にとってのシューベルトのように、「分かった」と感じられるまで何十年もかかるものもある。いずれにしても、大変に幸福な気持ちに包まれる。

 思うに、勉強するということは、解法を習うとか問題演習をするとかいうことばかりではなく、感受性を常に開いておくことなんではないだろうか。これほどの至福、楽しみを感じられるのであるから、いろんなことを感じ取る心のアンテナを開いておくこと、「勉強すること」を大切にしたい。

—————

戻る


お問い合わせ先

国語道場(西千葉)

稲毛区緑町1丁目27-14-202
千葉市
263-0023


043-247-7115
お電話のお問い合わせは、火~土曜日の午後3時~9時
メールは24時間承っております。