子どもの能力はどこから来るのか
今朝の千葉日報の朝刊を見たら、1面に、千葉市出身のピアニスト高木竜馬さんがグリーグ国際ピアノコンクール(ノルウェイ)で優勝したというニュースが載っていました。
高木さんのリサイタルには、家族で何度か聴きに行っています。なんと言ってもそのエネルギッシュな演奏に惹きつけられます。毎回プログラムも自作されているようで、それを読むと1曲1曲について様々な角度から熱心に研究されていることが感じ取れます。私も、自分の仕事にもっと誠実に取り組もうという元気をもらえるピアニストさんですね。
帰国されたときに、千葉~稲毛界隈の身近な小規模な会場でも精力的に演奏会を開かれているので、機会があったらぜひお出かけになることをお勧めします。
その高木さんもピアノ演奏を担当していたNHKのアニメ「ピアノの森」。7月に第1期の放送が終了してしまい、少々寂しい思いをしております。
アニメがあんまりおもしろかったので現在は原作漫画を読んでいるんですが、テレビ版は設定などがかなりマイルドに改変されているんですな。原作では、主人公の一ノ瀬海とその母親は、小料理屋を装った売春宿で生活しているんですが、テレビではその辺があいまいにぼかされていました。
12回という放送回数の中に納めるためか、駆け足で話が進んでいった印象がありましたが、それでも原作の重要なエッセンスはしっかりと捉えられているように思いました。それは、人間の心はどのようにできているのかとか、子どもの能力・才能はどういうところから育つのかということについての鋭い洞察です。
物語は、主要な登場人物が小学校で出会うところから始まります。ピアニストを目指す少年雨宮修平は、転入してきた小学校で、その後長らく友にしてライバルとなる主人公一ノ瀬海と、のちにピアニスト一ノ瀬海を世に送り出すことになる音楽教師阿字野壮介と出会います。
最初の部分はありがちな学園ドラマのようで、クラスのガキ大将に修平や海がいじめられます。初めてこの辺のエピソードを見ていた時、私は正直、「こんな話、必要か?」などと思ってしまったものです。しかし、これが実は重要な伏線になっているんですね。
人間の心というものは、圧縮された記憶でできているように思います。
小学校でいじめにあったこと、友達に心無いことを言ってしまったこと、みんなの前で恥ずかしいことをやらかしてしまったことなどなど。普段生活しているときはそのような記憶は意識の表面には出てきません。しかし、何かふとしたきっかけで数十年などという時間を飛び越して、突然そのような記憶にとらわれてしまい、怒ったり、赤面しそうな気持になったりするなんてことは、誰にでもあることでしょう。もしかすると、我々の記憶は失われることなく、チャンスを見つけてはいつでも意識の表面に飛び出さんとばかりに我々の心の中で待ち構えているのかもしれません。
「ピアノの森」の中では、同級生から侮辱的なことを言われたり強要されたりしたこと、大切なものを不意に失ってしまったことなどといったつらい出来事の記憶が、何年も経った後に、近所の子どもにピアノを教えるときだとか、ピアノコンクール本番での心理的葛藤の中に蘇ってきます。
テレビ版の「ピアノの森」第1期は、最後の3回の放送がショパンコンクールの様子に使われていました。コンクール出演者の一人一人の演奏には、彼らがどのように生きてきたかが現れ出てきます。あらゆる人間は、それぞれに過去の記憶を内に抱えて生きているものであるという人間観を原作者は持っているのだろうと想像します。私自身、あまりそういった視点で人間をとらえたことがなかったんですが、言われてみると確かにそうだと大いに目を開かされた思いがしました。
そしてもう一点。子どもの能力はいったいどこから来るのか、ということについての視点ですね。
ショパンコンクールで、一ノ瀬海の演奏に圧倒される雨宮修平は、海に勝つためには「いったいどれだけのものを犠牲にしなければならないのか」と自問します。
まあ、勝つためには、努力だ、我慢だ、根性だ。たしかにそんな風に思ってしまうものかもしれません。
もちろん、努力すること、がんばることは大切だし、絶対的に必要であるということは言えるでしょう。
この修平の問いに答えるように、指導者の阿字野壮介は海と過ごした日々を回想し、その場面が映し出されます。
各方面に頭を下げる阿字野氏w
海水浴、いいですね。
指導者の阿字野氏は、当然ピアノの技術を指導したのしょう。しかし、海の成長過程の重要なエッセンスとして、海水浴に連れていくような子どもらしい体験をさせることがさりげなく挿入されているところがなんとも心憎いですね。
上にも述べたとおり、海は、子どもとしては極めて劣悪な環境で生育してきました。そこで阿字野氏は、海を一流のピアニストにするために、父親の代わりになった。そして、海に子どもらしい体験をさせて心を育てようとした。この回想シーンから言えるのはそういうことなんじゃないでしょうか。
子どもに何か秀でたものを身につけさせるために、スパルタ式の詰込みをやったり、がんじがらめに習い事を詰め込んだりなんてのは愚の骨頂。本人に合った環境を用意すること、そして子どもらしいときめく体験をさせてやること、こういうことが大事だという作者の考えが現れているように思います。私も大いに共感するところです。
子どもの心に、「すっげー」、「面白え」、「きれいだな」・・・と感じる心を育てることができれば、子どもの能力はあとからどんどん伸びていくものなのです。
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