2016年02月11日 12:16

強欲で罪深きもの、汝の名は女なり

 小2の娘が家内と、学校の友達のことを話している。

 娘:「◯◯ちゃんのお母さん、とってもきれいなの。とても42歳とは思えない。」

 母:「(――〆)」

 女子の日々の友達づきあいは、闘争であるらしい。まことにご苦労なことである。

 勉強ができる、スポーツが得意、目が二重、ピアノを習っている、絵が上手、家が新しい、自分の部屋がある、お母さんが美人・・・

 こういう一つ一つのことがクラス内での自分のステータスを決めていく。学級内の女子たちの序列を、スクールカーストと呼ぶそうだ。

 男子の場合、そこまで激烈な序列争いはないように思う。いや、私が鈍感だっただけか?

 相原コージという天才的な漫画家が、25年前くらいに竹熊健太郎と組んで書いた傑作に、『サルでも書ける漫画教室(サルまん)』がある。そこに、男性と女性との欲望の構造的な違いを端的に図解したものがある。

 男性の欲望は、これすべて性欲に通ず。要は「たくさんの女にもてたい」に尽きる。

 社会的地位、高収入、高級車、ワインの知識等々、これすべて「たくさんの女にもてたい」という一点に帰着する。

 タレントも国会議員も、男はちょっと「偉く」なるとすぐにゲスの極みの不倫をしたがるのは、要はそういうこと。

 偉い人間が「偉く」なったわけではない。「たくさんの女にもてたい」から「偉く」なったのだ。

 スポーツに打ち込むのも、ガリ勉も、今すぐにもてたいか、「偉く」なってからもてたいかの違いこそあれ、動機は同じようなもんである。

 女性の欲望は、自己のステータスを向上させることに向かうらしい。

 高級ブランドの服やカバンを所有するといったことは、所有して、それによって自己のステータスが向上すれば、行為として完結することになる。男が着飾ったり、高級品を身に着けるのは、つまるところそのほうが女にもてると思っているからであるのとは大きな違いである。

 セクシーな格好をした女性が、街中でおっさんたちに見られて嫌悪感を抱くことについて、男性と女性とで見解が異なるのはここに原因がある。

 男は、《着飾る→女にもてる》という思考の生き物であるから、女性がそんな「扇情的な」格好をしている以上は、男にもてたいのだろうと思い込む。

 一方、女性は、そのような格好をする時点で一応の欲望を満たしているので、「は?何勘違いしてんだ」ということになる。

 うちの娘も、小2にしてすでにかような女性的欲望全開である様子を見て、「いやはや、女とは業の深きものよ」と感じた。しかし、ちょっと考えて、このままの感覚で大人になってしまうのはやはり良くないだろうと思い至った。

 こうした、あらゆるものを自分を飾るアクセサリーのように所有したがる心性を持ったまま大人になり、子をもうけて母親となったらどうなるか。その毒牙にかかるのは、その子どもということになるからだ。

 子どもの顔がかわいくあってほしい、頭がよくて成績もよくあってほしい、千葉御三家くらいに入ってほしい、スポーツも得意であってほしい、性格もいいといい・・・

 教育や社会の問題を統計の手法で分かりやすく紹介する舞田敏彦さんというブロガーの記事の一つにこんなものがあった。

 それは、児童虐待についての再定義を提案するものだ。

 「児童虐待」は、英語の child abuse の訳語だ。

 児童虐待というと、一般的に暴力や暴言、ニグレクトと定義されている。

 英語の child abuse の abuse という単語だが、 ab という部分と use という部分からできている。

 use は、もちろん、《使う》ということだ。 ab だが、それは abnormal などの ab と同じ。《本道から逸脱している》ということだ。

 つまり、 abuse の本来の意味は、《乱用》といった感じになる。

 だから、 child abuse は、《子どもを本来扱うべきあり方から逸脱した扱いをすること》ということになる。

 ブログ筆者の舞田氏は、「児童虐待」という用語を、一般的な暴力、暴言、ニグレクトという定義だけで理解するだけではなく、語源的に、《子どもを、親が常軌を逸した形でいいように扱うこと》というふうに理解するべきだと言っている。

 上記ブログ中、明治時代の朝日新聞の、「児童虐待」についての記事が紹介されている。

 曰く、「小学に通学せしむる外、或は裁縫教師の許に送り、或は茶の湯挿花の如き、琴三絃の如き、遊芸を仕込むなど、父母の虚栄心を満足せしむるの器具にしてしまうような事態」も、「児童虐待」だと言っている。

 明治時代にしてすでに習い事をつめ込むようなことは「児童虐待」だという大手メディアも存在したわけだ。

 オカルト的な早期教育に走ったり、子どもの適性も考えずに中学受験をさせようというのも、この明治時代の新聞記事風に言えば「児童虐待」だ。

 まあ、実際、塾をやっていると、適性を無視した中学受験をやらされて、すっかり自信を失って勉強嫌いになってしまった中学生に会うことがある。決して能力が劣っているわけではないのに、向いていない中学受験での失敗で、劣等感を植え付けられてしまっている。こうした子どもたちは誠に気の毒だとしか言いようがない。

 自己のステータスを上げるために、あれこれ所有しようとすることが全て悪いとは思わない。たぶんそれで世の中うまく行っている部分もあるんだろう。

 しかし、自分欲望の特性については自覚的で抑制的であってほしいなと思う。そうでなければ、結果的に自分の一番の宝を失ってしまうことだってあるのだから。

 娘の話を聞いていて、そんなことを思った。いずれ適当な時期に考えさせたいと思う。

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