2016年10月22日 22:02

忙中閑あり

 今日も塾生とご新規の方の面談が5件、入塾のお問い合わせもいただきました。皆様、国語道場にご関心を抱いてくださいまして、ありがとうございます。

 午前中に、自宅にほど近い千草台公民館で、千葉開府890年を記念して「千葉氏って誰?」という講演会が行われていたので、仕事前に出かけてきました。

 演題の通り、千葉氏についての基本的な話ではありましたが、平忠常の乱の主だった関係者や、相馬御厨の帰属争いなど、ややこしい事件の知識を整理することができました。

 参加者の中で45歳の私が一番若かったのではないですかね。もっと若い学生や中高生なんかも来てほしかったですね。

 最近は千葉を中心とした地域の歴史に関心を持っていろいろ本を読んでいます。そこから確信していることは、歴史の勉強は地域史を学ぶことで知識が立体的になり、一応の完成を見るということですね。

 例えば、平清盛が1181年に死んでからわずか4年で平家って滅亡してしまいます。これについて、学校の教科書だと、一時全国の半分を勢力圏に納めた平家が、「源氏を中心とする諸国の武士が兵士に対抗して兵を挙げました」、その結果壇ノ浦で滅びると書いてあるんですが、これってなかなか納得のいかない話ではないでしょうか。こんな大ごとが、そう簡単にいくのかという気がしてしまうのです。

 ところが、ここで千葉氏のことをちょっと知るだけで、なるほどそういうことだったのね、と思えるようになります。

 平家政権の末期、千葉氏の当主常胤は、旧来の勢力圏だった相馬御厨などを、平家方の勢力に侵略されていたのですね。

 そんな時に、伊豆で流刑にされていた頼朝が、平家打倒のために立ち上がり、千葉に来るということを聞いた。常胤は、「こりゃいい機会だ」ということで、二つ返事で頼朝に味方することにした。頼朝に味方して勝てれば、こじれにこじれた領地問題も一挙解決だと思ったのでしょう。

 こういうことが全国的に起こっていたのではないかと想像できます。つまり、平家の勢力拡大とともに、日本各地で旧来の武士たちがもともと持っていた権益の侵害が起きていた。それで、平家に対する不満が高まっていたということです。

 そして、以仁王の平家打倒の宣旨、源頼朝らの挙兵をきっかけに、全国的に一挙に平家からの離反が起こった。こうして、最高権力者平清盛死後からあまりにも早い平家滅亡という事態に至ったいうことなのでしょう。

 ちょっと地方の歴史を知っているだけで、学校で習う中央の歴史だけでは今一つ得心のいかないことも、すっと理解できるようになると思いました。

 小学3年生は、社会科でまず千葉市の地理や公民的なことを学びますよね。歴史についても同じような教育があるといいなと思います。

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