2017年01月30日 16:27

沈黙--Silence--

 遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙--Silence--」を観てきました。

 原作の小説を最初に読んだのは学生時代。ロシア文学を学んでいた関係で、キリスト教関連の本をいろいろと読んでいたのですが、最初はその一つのつもりでした。日本の隠れキリシタンのついての小説でも読んでみようかということで。しかし、今では私にとってこれまで読んだ本の中で最も印象的だったものの一つになっています。

 常軌を逸したようにも見える過酷な弾圧が行われた江戸時代初期の長崎周辺を舞台に、極限状態における人々の信仰生活を描くことで、人間の弱さ、神と人間とのつながりを際立った形で表現しています。日本を舞台とすることで、これほどキリスト教信仰の側面を浮き上がらせることができるのかと、驚かされます。

 その小説を、これまたアメリカ人の著名な映画監督が映画化したというのは、興味深いことです。原作小説の普遍的価値の高さを示しているのでしょう。

 キリシタンに対する過酷な弾圧が行われている日本に、2人の若いキリスト教宣教師が派遣されるところから話が始まっていくのですが、ガルペ神父役の黒髪ロン毛の俳優、どこかで見た顔だなあと思っていたんですが、結局最後まで思い出せず。

「スター・ウォーズ エピソード7」のカイロ・レン役の人でしたね。

 このほか、エピソード1でクワイ・ガン・ジン役だったリーアム・ニーソンが、2人の若い宣教師の元師、フェレイラ役でした。

なかなか強いフォースを感じますな。確かに、ジェダイとかシス役に選ばれた俳優は、聖職者の役も向いていそう。

 上映が始まったばかりなので、あまりネタバレ的なことを書いてしまうのもよくないのですが、一点気になったこと。

 主人公のロドリゴ神父が映画の最後の方で踏み絵を踏む場面で、原作では「鶏が遠くで鳴いた」となっているんですが、映画ではどうも鶏の声が聞こえなかったんですよね。

 そんな細かいことをと思われるかもしれませんが、イエスを裏切って信仰心の弱さをさらけ出してしまうことと、鶏が鳴く声が聞こえることとのつながりは、私には重要であると思います。

 鶏が鳴くという挿話は、ご存じの方も多いと思いますが、聖書の中の福音書にあるお話です。

 最後の晩餐で、イエスは弟子たちに、自分はお前たちのついて来られないところに行かなければならないと打ち明けます。弟子の中でペトロが、自分はこの身がどうなろうと師についていくと強く主張します。しかし、イエスは彼に、「お前は私のことを知らないと言うだろう。その時に鶏が鳴く」という予言をします。

 果たしてイエスが捕らえられ、裁判にかけられているさなか、ペトロはその屋敷に入り込みます。そこで一人の女に、「あんたはあの罪人と一緒にいただろう」と人々の前で尋ねられます。慌てたペトロは、「私は知らない」と言ってしまうわけですが、その時、イエスの予言通り鶏の鳴く声が聞こえます。ペトロは屋敷から逃れ、独り慟哭します。

 原作者の遠藤は、「聖書の中の女たち」というエッセーで、このペトロの場面について、自分の力を過信し、人間の弱さを理解しないことは罪なことなのだということを、イエスはこの直情的で正直な弟子に知らしめたと書いています。おそらく、遠藤が、「沈黙」のロドリゴ転向の場面で、「鶏が遠くで鳴いた」と付け加えたのは、このような意味であったのだろうと思います。

 ペトロのこのお話は大変に有名ですので、スコセッシ監督がこれに気づかなかったということはありえないと思われます。そうすると、鶏の声を入れなかったのには、何か意味があるのかもしれません。ちょっと今のところよく分かりませんが。

 それとは別に気づいたことがあります。

 本作品は、大変素晴らしい映像美で「沈黙」の世界を再現しているのですが、映像化することで、キリシタンの人々とは別に、「普通の」日本人の町や人々の平和な生活が描かれることになります。それを見ていて、私は少しぎくりとさせられました。

 江戸時代のキリシタン弾圧はなんでそこまで苛烈だったのかということが、私の中では長らく疑問でした。今日、映画「沈黙」の、キリシタンとそれ以外の「普通の」人々の生活との映像の対比を見ていて、その背景には、当時のマイノリティーに対する差別があったのではないかということに思い当りました。

 マイノリティーに対する差別の特徴の一つに、大多数の人々にとってそれは痛くもかゆくもないということがあります。

 ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人に対する激しい弾圧があったことは周知の事実です。しかし、当時の大多数のドイツ人は、ユダヤ人たちに何が起きていても、戦争末期までは普通に生活ができていました。我が国においても、例えばハンセン病患者を隔離して収容施設で一生を送らせるということが20年ほど前まで行われていましたが、これも大多数の人々にとってほとんど何の関係もないものとして続いていたことです。

 戦国時代の終わりには日本の人口は1000万人ほどいたそうですが、キリシタンは多くて30万人程度ということなので、せいぜい3%ということになります。豊臣秀吉の禁教令以降、信者は激減していったでしょうから、本当に少数派、多くの日本人からすると、キリシタンは変な習慣をかたくなに守っている人たちといった意識があったのではないでしょうか。

 映画の中でも、火をつけて焼殺する、海に突き落として溺死させる、リラックスさせておいて突然一刀両断に斬殺する・・・等々ありとあらゆる方法でキリシタンが虐殺される場面が出てきますが、ここまで人を人とも思わないような仕打ちが実際に行えたのは、マイノリティーに対する差別意識があったからだと考えられないでしょうか。

 小説は、当然言葉ばかりですが、映像化することで、キリシタンとそうでない大多数の人々との生活が浮き彫りになり、その結果当時の人々の意識が見える化されたところにも、この映画の価値があるかもしれません。

 現代では、世界中で排外主義的行動が公然と行われるようになってしまいましたが、マイノリティー差別は、大多数の「普通の」人々の生活にほとんど何の影響も及ぼさない、それゆえに多くの人々がそれに対して無関心になってしまう、しかしその中でも確実に人として恥ずべきことが行われうるのだということを、この映画は示しているように思いました。

 

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