私たちも、何となくこれまでの習慣を変えられない「裸の島」の住人なのではないか
今朝は、TOHOシネマズ市原の「午前十時の映画祭9」に行ってきました。見たのは、新藤兼人監督の「裸の島」。
瀬戸内海のとある小島。夫婦と2人の子どもの4人の家族が、夏は芋、冬から春にかけて麦を作って暮らしています。島には真水が出ないらしく、夫婦は、日に何度も島と本土を手漕ぎ舟で往復し、小川で水を汲んで大きな水桶2つを天秤棒に担いで運ぶという生活をしています(この場面がとにかく長い)。
本土の生活を見てみると、自家用車も走り、テレビ放送も行われています。すなわち、時代設定は戦後。農地改革も行われた後でしょうから、彼らは小作人で土地から逃げられないのではなく、自らそこに住んでいると考えられます。
彼らの生活は、本当に何一ついいことが感じられません。本当に徒労としか言いようがない生活を続けています。あまつさえ、子どもの一人が病気のため、医者にも診てもらえずに死んでしまいます。
映画の最後のほうで、妻は感情を爆発させ、汲んできた水の入った桶を畑にたたきつけ、芋の茎をむしりだします。それに対して夫は黙々と水を撒き続けると、やがて妻は諦めたようにまた夫とともに水を撒き続けます。そしておそらくこの生活が果てしなく続いていくようです。
作中、俳優が一言も言葉を発しないということもあって、とにかく見ているのがつらい(つまらないという意味ではない)映画でした。
これを見てまず思い出したのが、安部公房の『砂の女』。主人公の男は、物語の最後、砂丘につぶされそうな家からいつでも脱走できる状況にありながら、逃げない。そしてまた、意味があるとも思えない砂かきの生活を続けていくと想像されます。「裸の島」と似た設定であるように思われました。
そこまで考えて、「そうかこの映画は『日本』を描いているとも考えられるんじゃないか」と思い至りました。何のためにこんな生活を続けているのか、他人はおろか自分でもよくわからないのだけれども、なんとなくそこから抜け出せない。それまでの日常を続けていってしまう人々の世界としての日本ですね。
卑近な例をあげましょう。学校にはPTA活動というものがあります。保護者の皆さんは、うわさで、自分のクラスには不登校の児童がいるらしいことや、いじめがあるらしいことを知っています。しかし、PTAの活動はあくまでバザーの準備だったり、ベルマークの集計だったり、ほかの団体への挨拶だったりして、自分の子どもたちの学校生活に直接かかわるようなことは何もできないということがよくあります。なぜそんなことを続けているのでしょうか?誰もわかりませんが、ただただそのような習慣が続いていきます。
先日のNHKスペシャル「平成史第2回」では、バブル景気崩壊後の山一證券破綻の顛末が関係者のインタビューをもとに紹介されていました。大口顧客の大企業を失わないために、その投資に損失が出た場合、損失分を証券会社が穴埋めするという不正行為を続けた結果、山一証券は経営が立ち行かなくなり、廃業に追い込まれていくわけですが、当時の関係者は、みなこれが常軌を逸したことであることを分かっていたということです。それなのにやめられない。
映画の島で暮らす家族の話はいかにも奇異ですが、しかし我が身を振り返れば、何の意味があるのかわからない、それどころかむしろ良くないのではないかというような日常習慣から抜け出せない人間ということでは、私たちも彼らと同じようなところがあるのではないか。そんなことを考えさせられました。
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