自分でもワケの分からんことを書くな
先日の記事で、学力を伸ばす、成績を上げられるようになるには、自分の中で当たり前になっている習慣自体を変えていかなければならず、そこが一番難しいところだ、ということについて触れました。そこで具体的に国語科ではそれはどういうことなのか、今回は書いておきたいと思います。「国語」と言ってもその学習内容は文法や言葉の知識、文学史、古典などなどありますが、ここでは、入試でも最も大きな配点を占める現代文の読解と解答の記述について述べたいと思います。
私の見るところ、世の子どもたちは、国語の読解(とその解答の記述)について大きな勘違いをしていることが多いです。彼らは、それについてニュースとか大人の説教のような「いい話」を読んだり書いたりするものだと思い込んでいる節があります。
教科書や問題集、入試問題に使われる文章は確かにいい話が多いです。それは、子どもたちに歴史や科学の事実を教えたり、世界を見る新しい地平を示したりするものです。私がここで「いい話」とカギかっこ付きで言っているのは、肝心の子どもたちにはそういう文章の良さはあまり伝わっておらず、それらの文章が、自分の生き方やものの見方とはあまり関係のない、大人たちが説教として言いそうな話として映っていることが多いからです。
ともかくも子どもたちは、ほとんどの場合テストや教科書の文章を大人の説教のようなものとして読んでいる、つまり自分の興味を引くようなことが書いてあるなどとはあまり思っていないということです。もしかすると、これを読んでいる大人の中にも、「え、そうじゃなかったの?」と思っている人がいるかもしれません。
こういう思い込みがもたらす害悪は、読解(とその解答としての記述)は何をするものなのかがよく分からなくなることです。
国語の、というか別に社会でも理科でも数学でもよいのですが、読解というのは文章に何が書いてあるか分かればいいということです。それ以上でもそれ以下でもありません。そして記述とは、書いてあったことについて質問されたように、他人に分かるように書くということです。
しかし、多くの子どもたちは、国語の読解をあまり関心の持てない大人の説教のようなものを読まされ、記述はその興味のない話を大人のいうようにまじめな感じで書くことだと思っているのでおかしなことになります。興味のないものを読まされているだけだから特に内容を分かろうとも思わないし、答えを書けと言われてなんとなく真面目そうな文を書いているだけだから、まったく意味不明な言葉を並べていても、それをおかしいとも感じないわけです。
「読解力がない」人の現実は、このように何が書いてあるかそもそも分かろうとも思わずに活字の上をただ視線が流れていくような「読み方」をし、自分でも何を言っているのか分からないような「文」を書いてもなんとも感じないようなことをやっているものだと言えると思います。
こうしてみると、逆に読解力をつける方法は理論上は簡単なことです。分かるまで読むようにする・人が読んでわかりやすいように何度も書いたものを見直して書き直すようにする、それだけのことです。
理屈の上では簡単なのだけれども、それがなかなか治らないのは、やはりこれまで当たり前だと思ってきた習慣を変えるのは難しいからです。文章を納得できるまで読まない、自分の書いたものが他人が見ても誤解なく伝わるように書けているかも確認しないのが当たり前になっているのを直すというのは、ほとんど人間が変わるに等しいような努力が必要になります。
先日の授業でも、「記号の言語活動の理由」などと、ほとんど暗号のようなことを書いてきた生徒がいました。本人は「できました」と言って得々としています。
「おまいさん、これはどういう意味なんだい」と聞くと、「分かりません」などと平然と言ってくる。
自分で何を言っているのかもわからないようなことを言ったり書いたりするというと、日常生活でそんな人がいるとそれはかなりヤバい状況だと思うのですが、国語の授業の中ではこんなことは日常茶飯事と申して差し支えありません・・・
「自分でもワケの分からんことを言うなや」ということで、「そもそもここに書いてあることはね、・・・」などとこと細かに説明したり、生徒に自分の言葉で説明させたりなどと地道なことを国語道場ではやっています。こうした取り組みを粘り強く続けていくことで、やっと国語の読解に必要な習慣は変えていけるものなのです。
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