読書が「教え」てくれること
3月20日は、オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど20年ということで、メディアでも頻繁に取り扱われていましたね。
1995年3月20日のまさにその日、私は大学の卒業式を迎えていました。JRで通学していたため、何の問題もなく大学にたどりついていたのですが、卒業式会場の学内ホールは半分が空席。女子大生にとって卒業式がいかに大切な儀式であるか知らなかった私は、「大学生ともなるとこんなものか」と思ったものでした。
卒業式の欠席が多いことについて友人に尋ねたところ、地下鉄が全線ストップしていて、それは車内で毒ガスがまかれたからだと教えてくれました。それを聞いた私は、そんなバカなことがあるものかと言って、全体の会場を後にし、自分の学科の卒業式に移動しました。
地下鉄サリン事件のあった1995年は、1月に阪神淡路大震災が起きた年でもありました。毒ガス事件の発生も知らず、学科の教授の一人は大震災のことを受けて、「日本の建物は震度7の揺れにも耐えられると言われていた。私たちは愚かにもそのような話を何の疑いもなく信じていた」と、卒業生たちに話しました。
1995年。何となく大丈夫だと思っていた世の中の基盤のようなものへの信頼が、実は何の根拠もないということ。現実の世界は考えてもいなかったようなことがいつ起こっても何の不思議もないということ。何かが起こった時に自分が生き残れるかどうかということは、運次第としか言いようがないくらいのものだということに、改めて気付かされた年だったと思います。
卒業式からの帰り道、人でごった返すJR秋葉原駅のホームのけたたましいアナウンスで、毒ガスによる無差別テロで地下鉄全線がストップしたという友人の話が、冗談ではなかったことを初めて知りました。
それからテレビでは連日オウム真理教の犯罪についての報道が続いたのはご存じのとおりです。東大や早大など一流大学を出た「エリート」がどうしてこのような宗教に入り、凶悪な犯罪を起こしたのかということが、しばしば議論の一つとなりました。
そんな中で、現在東京都知事の舛添要一氏が、「ドストエフスキーも漱石もろくに読んだことがないからこういうことに引っ掛かる。こんな連中をエリートとは呼ばない」と言っていたことを思い出します。
ドストエフスキーは世界文学の頂点の一人で、漱石は、それに引けを取らない日本文学の極致でありますから、最高の文学作品の象徴という意味で、舛添氏は言っていたのだろうと思います。
では、そうした最高の文学作品とは一体どういうものなのか、そして次に、そのような本を読む意味とは何なのか、若者はなぜ本を読むべきなのかについて考えてみましょう。
塾長という立場で、これまでたくさんの保護者の方々とお話をさせていただいてきましたが、「うちの子は読書をしないから国語力がない」と仰る方は少なくありません。
もちろんこの考えが間違っているということはありません。読まないよりは読んだ方がいいことは確かです。しかし、たくさん読むと言っても、子どもが自分の好きな傾向の本ばかりたくさん読んだところで、大学入試で出題されるような文明や言語についての評論文を読めるようになるわけではありません。国語の成績を上げるために本を読めということは、いささか安直の感があります。
読書のすすめとしては、しばしば経営コンサルタントが「月に10冊以上本を読め」と言っていたり、ビジネス雑誌などに「年収○○以上の人の読書術」のような記事があったりします。
まあ、ビジネスのノウハウや、スポーツのコツなど、すぐに実践できることを学ぶための読書は、それはそれでよいと思います。しかしながら、目先のことに役立つ読書と、文学作品を読むこととの間には、大きな懸隔が存在することは容易に想像されることでしょう。
かくいう私にも、恥ずかしながら、人生の意味のようなものを求めて読書していた時期があります。
しかしながら、漱石の『猫』は水瓶に飛び込んで自殺し、『三四郎』は「ストレイ・シープ」、『それから』では周りのものがすべて真っ赤になって回りだし、『門』では妻の「もうすぐ春が来ますね」という呼びかけに、夫は「何また冬が来るさ」と答え、『行人』では「死ぬか宗教に入るか、それとも気が狂うか」という状況に何の解決も与えられません。
ドストエフスキーなら、『罪と罰』のエピローグにはそれなりの爽快感がありますが、『白痴』ではアナスタシアは殺され、公爵は再び発狂、『悪霊』では他の男の子を身ごもって帰ってきた昔の恋人を受け入れることを決意したイヴァンが、直後に革命グループの同志に殺され、『カラマーゾフの兄弟』では長男は父殺しの冤罪を着せられシベリア送り間近、次男は発狂。
なんじゃこれは、人間はどう生きていったらいいのか、なんで書いていないんだと、本気で悩んだことがあったものです^^;
皆様には百も御承知のことかとは思いますが、人類共通の遺産である一流の文学作品が表わしていることは何か。その一つは、我々の人生の答えは、他の誰も示すことができないということであり、与えられた状況の中で自分が何をどうするか(あるいは何もしないか)ということについては自分で決めるしかなく、しかもそれが正しいのか正しくないのかについて誰も分からないということです。
なぜそうなるのか。文芸作品とは、現実の世界を言語によって切り取って示すものです。だから、優れた文芸作品は、よりリアルに現実作品を写し取ったものということになります。そうであるならば、優れた文芸作品が示す世界は、我々の現実の世界と同様、自分が何をどうしたらいいかについての答えを誰も持っていないことになるはずです。
平清盛の継母、池禅尼は平家繁栄の絶頂期に死んでいるので、自分のやってきたことが正しかったと確信してこの世を去ったことでしょう。しかし、それから20年後に自分の一族のほとんどが滅亡してしまいます。このように、何が絶対的に正しいとか正しくないといったことは、狭い人間の料簡では何とも言えないのです。しかし、そうした残酷なまでの現実が描かれているために、『平家物語』という本は不滅の価値を持っているのです。
国語の成績を上げるために本を読めと言うことや、明日のビジネスのために本を読めと言うことは、つまるところ他者から自分の問題の解決を教えてもらうための読書と言えます。こうした読書は、自分の生き方について他者に判断を預けてしまうという意味で、宗教に入ってしまうのとそれほど変わらないと言えます。
さて、それでは「答えはないことを示している」という「一流の文学作品」を読む意味とは何なのでしょうか。若者はなぜそのような本を読まなければならないと言えるのでしょうか。
一流の文学作品は、他人から自分の生き方の答えを求める人々に対し、そんなものはないという現実を叩きつけてくれます。
現実を直視させられて、あるいはそれを読む人は一時的に絶望してしまうかもしれません。しかしそこから立ち直って生きていく人間は、本当の意味での心の強さを持つことになるでしょう。最高の文芸作品を読むことの「意味」を敢えて一つ挙げるならば、物語を通して読者が、自分のことは自分でどうにかするしかないのだということを知り、真の精神の強さを持つ者に成長しうることだと言えるでしょう。
私たちの子どもたちは、高齢化と人口減という未曽有の危機の中で、現代よりも経済的に貧しい社会を生きていかなければならなくなるでしょう。このような状況の中、私たちが子どもたちのためにしなければならない教育とはどのようなものでしょうか。
それは、いかなる困難においても、無気力になったり自暴自棄になったりせず、怪しげな宗教やテロリズムに安直に答えを見出すのでもなく、現実の中でもがきながら自分の生き方を決めていくしたたかさを身につけさせることでしょう。そうしたことが可能な学びがあるとすれば、それは一流の文学作品を読むことに他なりません。
国語道場が提供する「ことばの学校」読書指導は、お子様お一人お一人にぴったり合った本を選び、読み進めながら、さらに日本語力を高めることができるプログラムです。この最終グレードでは、漱石の『吾輩は猫である』をはじめとする、一流の文学作品も読んでいきます。
「ことばの学校」は、ひとえに読書力、日本語力を鍛えるばかりでなく、お子様がこれからの人生を生きていく上で必要な精神の強さを育むうえでもお役に立つことでしょう。
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